インドネシア・パプア州アスマットの原始美術(石器時代最後の戦闘楯) 世界的に有名な、インドネシア最東端のパプア州(旧イリアンジャヤ州)の南西部アスマット(Asmat)原始美術。その芸術性の高さは、ニューヨークにあるメトロポリタン美術館に「アスマット・コーナー」があることからも窺い知ることができます。プリミティブ・アートは、日本ではまだまだ愛好家そして理解者が少ないのが現状ですが、欧米諸国では、芸術品コレクターにとって『いつの日か、アスマット彫刻を手に入れたい』と、垂涎の的。 写真の戦闘楯は、1979年末、アスマット地域の最上流部、ブラザー川上流域のセパナ(Sepana)村で収集したものです。当時は、鉄器文化が同地へ入り込む直前にあたり、まさしく“石器時代”最後の時代でした。1980年代に入ると、南から木材伐採業者やキリスト教宣教師が来訪し、それに伴って、鉄器文化が持ち込まれ、一瞬にして、石器時代が終焉しました。 チッタク(Citak)民族が暮らすセナパ村では、戦闘楯はザマスと呼ばれています。部族戦争が頻繁に起きていた同エリアでは、一つの村に必ず4~5枚の戦闘楯が準備されていました。チナックと呼ばれる、カヌーにも応用される大木の、原型が平らな板根(ばんこん)部分を利用して作成します。もちろん、1979年以前は、全ての製作過程が石器と骨器(カスワリ=火喰鳥の大腿骨で作ったナイフ)のみで行われました。 この戦闘楯については、『西イリアン探検(II)』(昭和59年9月30日刊。日本テレビ放送網発行・読売新聞社発売。大川誠一著)にも写真入りで解説されています。 まさしく“石器時代最後の戦闘楯”で、学術的価値は計り知れないものがあります。さらに、米国やヨーロッパが所有するアスマット産の戦闘楯の多くが、カスアリネン海岸一帯の物であるのに対して、この戦闘楯は、シレッツ川の最上流部に位置する支流の一つである“最後の原始時代”とまで言われたブラザー川流域で作られたもので、そのデザインとモチーフは、アスマット原始美術の至極とも言われています。 この戦闘楯には、上部にエイが描かれています。これは満潮に伴って海岸部から数百キロも遡って来た海水中にいたエイを目撃したことを物語っています。また、全体を覆う「C型」のモチーフは、腕と足を示し、中心部の菱形はヘソを意味しています。つまりこの楯の中には、一匹のエイと計10名の人間が彫り込まれています。言い換えますと、この楯には自分意外に10名の“霊”が宿っていることを意味し、それはそのまま敵部族に対する威嚇となっています。 インドネシア文化宮(GBI)が所有するアスマット芸術品、殊に戦闘楯の中でも、地域、製作方法、製作年、モチーフの美しさなどの面で、まさしく最高レベルの逸品です。 サイズは高さが約201cm。底部分の最大横幅が約35cm。胴体部の最大横幅が約48.5cm、厚みはおおよそ7~15mm。裏面の取っ手部分の長さは約41cm、最大奥行約7.5cm。重量はおよそ4.2kg。 1979年まで実際の部族戦闘に使用されていた関係で、以下のような傷跡がありますので、予めご了承お願い致します(2枚目&3枚目の画像参照)。 ① 頭頂部に長さ2.5 X 1cmの欠け ② 首部分(左上)に長さ17 X 3cmの欠け ③ 裏面の上部に、収集時にボンドと木片で穴を塞いだ修繕跡が二ヵ所 ④ 中央部右端に長さ約55cmの亀裂 ⑤ 中央部右端に約1.5 X 3cmの欠け ⑥ 底部右端に長さ約7cm X 6mmの欠け ⑦ 裏面右下に大きさ約5 X 3cmの黒ずんだ炭焼け跡
戦闘楯は、アスマット原始美術の中でも、ビス・ポール(祖霊像)やウラモン(Wuramon=霊魂の舟)彫刻と並ぶ“最高峰”たる存在です。アスマット人の死生観、そして首狩り風習と密接な関係を持つ戦闘楯並びにビス・ポールは、自然死を受け入れない部族社会にあって、死者の仇討ちをするための事前儀式として頻繁に製作された歴史を持ちます。製作はウンブ(儀式・祭り)の同時進行で行われ、時には材料の切り出しから完成まで数ヶ月要することも決して珍しいことではありません。 アスマット地方の神話である「フメリピッツ(創造主で“風の人”の意味)」に拠れば、天から地上に降りてきた創造主は、丸太をくり貫いて男女の像を彫った。次に太鼓を作った。トカゲの皮で覆って、太鼓を打ち鳴らすと、その男女の人形は立ち上がり、リズムに合わせて踊り、歌い始めた。そうして人間としてのアスマット人が誕生した、と。つまり、人間は木から生まれたという神話です。「アスマット」とは、地元の言葉で「真実の人間」、「我々は木だ」を意味します。木から生まれたと信じるアスマット人は、死ぬと身内の手で木の彫刻になります。この神話に根ざした風習によって、アスマット地方では、今や世界的なプリミティブ・アートの宝庫と呼ばれるまでに彫刻文化が異常に発達したわけです。 尚、アスマット彫刻に関しては『Asmat Art:Wood Carvings of Southwest New Guinea』(Periplus社刊)、『西イリアン探検(II)』(1980年、日本テレビ発刊・読売新聞社発売・大川誠一著)、『祖像の民族誌』(小林眞著・蹲踞館発行)などを参照してください。宅急便で発送し、送料はこちらで負担いたします。 インドネシア文化宮GBI=Graha Budaya Indonesia)は、インドネシアの24時間ニューステレビ局『メトロTV』東京支局がプロデュースするインドネシア情報発信基地です。 インドネシア文化宮ブログサイト http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/
世界的に有名な、インドネシア最東端のパプア州(旧イリアンジャヤ州)の南西部アスマット(Asmat)原始美術。その芸術性の高さは、ニューヨークにあるメトロポリタン美術館に「アスマット・コーナー」があることからも窺い知ることができます。プリミティブ・アートは、日本ではまだまだ愛好家そして理解者が少ないのが現状ですが、欧米諸国では、芸術品コレクターにとって『いつの日か、アスマット彫刻を手に入れたい』と、垂涎の的。
写真の戦闘楯は、1979年末、アスマット地域の最上流部、ブラザー川上流域のセパナ(Sepana)村で収集したものです。当時は、鉄器文化が同地へ入り込む直前にあたり、まさしく“石器時代”最後の時代でした。1980年代に入ると、南から木材伐採業者やキリスト教宣教師が来訪し、それに伴って、鉄器文化が持ち込まれ、一瞬にして、石器時代が終焉しました。 チッタク(Citak)民族が暮らすセナパ村では、戦闘楯はザマスと呼ばれています。部族戦争が頻繁に起きていた同エリアでは、一つの村に必ず4~5枚の戦闘楯が準備されていました。チナックと呼ばれる、カヌーにも応用される大木の、原型が平らな板根(ばんこん)部分を利用して作成します。もちろん、1979年以前は、全ての製作過程が石器と骨器(カスワリ=火喰鳥の大腿骨で作ったナイフ)のみで行われました。 この戦闘楯については、『西イリアン探検(II)』(昭和59年9月30日刊。日本テレビ放送網発行・読売新聞社発売。大川誠一著)にも写真入りで解説されています。
まさしく“石器時代最後の戦闘楯”で、学術的価値は計り知れないものがあります。さらに、米国やヨーロッパが所有するアスマット産の戦闘楯の多くが、カスアリネン海岸一帯の物であるのに対して、この戦闘楯は、シレッツ川の最上流部に位置する支流の一つである“最後の原始時代”とまで言われたブラザー川流域で作られたもので、そのデザインとモチーフは、アスマット原始美術の至極とも言われています。 この戦闘楯には、上部にエイが描かれています。これは満潮に伴って海岸部から数百キロも遡って来た海水中にいたエイを目撃したことを物語っています。また、全体を覆う「C型」のモチーフは、腕と足を示し、中心部の菱形はヘソを意味しています。つまりこの楯の中には、一匹のエイと計10名の人間が彫り込まれています。言い換えますと、この楯には自分意外に10名の“霊”が宿っていることを意味し、それはそのまま敵部族に対する威嚇となっています。
インドネシア文化宮(GBI)が所有するアスマット芸術品、殊に戦闘楯の中でも、地域、製作方法、製作年、モチーフの美しさなどの面で、まさしく最高レベルの逸品です。
サイズは高さが約201cm。底部分の最大横幅が約35cm。胴体部の最大横幅が約48.5cm、厚みはおおよそ7~15mm。裏面の取っ手部分の長さは約41cm、最大奥行約7.5cm。重量はおよそ4.2kg。 1979年まで実際の部族戦闘に使用されていた関係で、以下のような傷跡がありますので、予めご了承お願い致します(2枚目&3枚目の画像参照)。 ① 頭頂部に長さ2.5 X 1cmの欠け
② 首部分(左上)に長さ17 X 3cmの欠け
③ 裏面の上部に、収集時にボンドと木片で穴を塞いだ修繕跡が二ヵ所
④ 中央部右端に長さ約55cmの亀裂
⑤ 中央部右端に約1.5 X 3cmの欠け
⑥ 底部右端に長さ約7cm X 6mmの欠け
⑦ 裏面右下に大きさ約5 X 3cmの黒ずんだ炭焼け跡
戦闘楯は、アスマット原始美術の中でも、ビス・ポール(祖霊像)やウラモン(Wuramon=霊魂の舟)彫刻と並ぶ“最高峰”たる存在です。アスマット人の死生観、そして首狩り風習と密接な関係を持つ戦闘楯並びにビス・ポールは、自然死を受け入れない部族社会にあって、死者の仇討ちをするための事前儀式として頻繁に製作された歴史を持ちます。製作はウンブ(儀式・祭り)の同時進行で行われ、時には材料の切り出しから完成まで数ヶ月要することも決して珍しいことではありません。
アスマット地方の神話である「フメリピッツ(創造主で“風の人”の意味)」に拠れば、天から地上に降りてきた創造主は、丸太をくり貫いて男女の像を彫った。次に太鼓を作った。トカゲの皮で覆って、太鼓を打ち鳴らすと、その男女の人形は立ち上がり、リズムに合わせて踊り、歌い始めた。そうして人間としてのアスマット人が誕生した、と。つまり、人間は木から生まれたという神話です。「アスマット」とは、地元の言葉で「真実の人間」、「我々は木だ」を意味します。木から生まれたと信じるアスマット人は、死ぬと身内の手で木の彫刻になります。この神話に根ざした風習によって、アスマット地方では、今や世界的なプリミティブ・アートの宝庫と呼ばれるまでに彫刻文化が異常に発達したわけです。
尚、アスマット彫刻に関しては『Asmat Art:Wood Carvings of Southwest New Guinea』(Periplus社刊)、『西イリアン探検(II)』(1980年、日本テレビ発刊・読売新聞社発売・大川誠一著)、『祖像の民族誌』(小林眞著・蹲踞館発行)などを参照してください。宅急便で発送し、送料はこちらで負担いたします。
インドネシア文化宮GBI=Graha Budaya Indonesia)は、インドネシアの24時間ニューステレビ局『メトロTV』東京支局がプロデュースするインドネシア情報発信基地です。 インドネシア文化宮ブログサイト
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